【熱中症にご注意を】


 太陽の放つ光は遍く大地に熱を運ぶ。特にこの季節になるとその熱も一層激しくなる。無論、この幻想郷においても例外はない。
 まるで大地が燃えるかのように景色は揺らぎ、大気さえ焼き焦げているとさえ思ってしまうほどの、どうしようもない暑さ。
 季節は夏。真っ盛りと言っていいくらいの、夏。
 そんな真夏を迎えた幻想郷の中でも“比較的”に涼しい、木々の生い茂った場所――“魔法の森”の入り口付近に建てられた、廃屋のような埃臭さが滲み出ている家――扉上に大きく『香霖堂』と書かれた看板を下げる建物の屋内より、男の低い呻き声が漏れ聞こえていた。
 店内も外観と違わず……もしくはそれ以上に酷い状態だった。
 埃かぶった、用途もよくわからない品々が所狭しと並び、更にはそれの所為か通気性というものが一切感じられない。加えて外のこの暑さ。日光自体は屋根で遮断しているものの、この蒸し暑さは外の気温と比肩しうる程である。
 奥でこの暑さに参り、鑑定台に上半身を伏した、先ほどの呻き声の主――銀髪の男性、森近霖之助。
 せめてもの思いで近くの窓を全開に風を受けようとするも、どうにも効果は薄かったようだ。換気という役割程度に働いているのが唯一の救いか。
 どちらにせよ、霖之助はこの暑さに参っていた。屈服していた。敗北していた。
 やる気さえ起きない。彼自身、自分から動こうとする時は稀ではあると認めながら、それ以上に何もかもする気が起きないと思わずにはいられなかった。
 晴読雨読、晴れの日も雨も日も関係なく読書する彼が珍しく読書すら諦めた。それほどには、此度の夏の猛威は凄まじい。

「涼めるものがここぞという時に無いと、この季節は生き辛い……」

 団扇をあおぐ力を出すのも億劫だと言わんばかりに、それを振るう右腕の動きは実に投げやりだった。
 元より出不精な彼のやる気を零以下にそぎ落とす真夏の日照り。
 そんな人の気力さえ気化させかねない暑さの中で、入り口のカウベルがカランコロン、と鳴り響いた。
 このような日照りに、酔狂なものだ。と気怠く重い上半身を起こして、玄関先へ見やる。

「いらっしゃ―――ああ、君か」
「ええ、いらっしゃったわ……ってうわ、何よこの暑さ。室内でこれは無いわ、熱が篭もりすぎでしょ」
「これでも換気してるつもりなんだがね。それにしても、君も君だ。よくもこんな日に外へ出られるものだ」

 なじみ深い、紅白の装束に身を包んだ少女――博麗霊夢が額にしわを寄せて、いつも以上に気だるそうな顔をしてやってきたのだ。

「私はこんなサウナじみた場所から一向に動こうとしない霖之助さんの方が信じられないんだけどね」
「動いて改善されるというワケでもないだろう。少なくとも直射日光を遮ってるだけマシだ」

 それもそうか、と霊夢は呟いて鑑定台へ座る霖之助へと歩み寄る。
 外の気温は霖之助の想像以上に高まっているのだろう、霊夢の額から流れる汗は一向に止まる気配はない。見れば彼女の巫女服も汗によってぐっしょりと濡れている。
 霖之助はカウンターの近く、洗濯バサミでぶら下げていたタオルを掴み、汗だくの霊夢へと差し出した。

「ありがと。こうも暑いと服を着るのも億劫になるわ」

 やはりそれが目的だったのだろう。嬉々とタオルを手にとり、汗で粘ついた首筋を荒っぽく拭いていく。
 霖之助はため息を吐き、額を押さえながら奔放な彼女の言葉に苦言を漏らす。

「君が言うと冗談なのか本気なのか、判断しづらいね。もし本気なら、止めた方がいいと進言するけど」
「するワケないじゃない。あ、もしかして想像した? 霖之助さんって案外すけべぇよね」

 ほれほれーと両腕を軽くあげて腋やその下から見えるサラシを見せつける霊夢。
 女性としての節度もあったものじゃない、と苦々しい思いと共に霖之助の額にシワが一本また増えていく。
 
「せっかく冷えた水を汲んでこようと思ったのだが、やはりこんな暑さじゃ動けないな。仕方ない、諦めるか」
「嘘よ嘘、冗談だってば。拗ねないでよー」
「拗ねてなどいるものか。少なくとも、男性の前でそういうことは言わない方が適切だね。いや、女性相手でも不適切極まりないが」

 全く、この少女は己のことをどう思っているのか。いくら年齢的には三桁程は差が開いているとはいえ、少しばかり男女間の意識が低いのではないか。
 それとも自分が意識しているのか否か。無論、後者だと霖之助は断じる。相手は博麗の巫女とはいえ、一端の少女と変わらない。
 だがそれでも節度として弁えるべきなのだ。先を生きた者として、後を歩む者に注意するのは当たり前であって然るべきであると思考する。 
 そんな思いを余所に、不満そうに頬を膨らませてブー垂れる少女を視界の隅へ追いやり、霖之助は重い腰を上げた。
 ゆっくりのっそりと動く様はまるで何処かの動物のようだ。

「どこいくの?」
「冷えた水をとりに、だよ。どうせそういう目的を含めて此処に寄ったんだろう」
「そりゃそうだけど。霖之助さんって、やっぱり素直じゃないというかなんというか」

 それは自分自身よく痛感してるよ、と、脳裏に白黒の衣装を纏った少女を想起する。
 どうにもこうにも苦言を漏らすも、霖之助自身、彼女たちに対して甘い部分が在る事実に関しては自認していた。
 我儘な妹分程度にしか思ってはおらずとも、それでも幾分かは可愛らしいと思う部分も偏在している。
 つくづく思考が老人じみてきたなと苦笑を漏らしながら、台所へと疲れた体を動かそうと――


「霖之助さん―――!?」


 彼女の叫び声が聞こえた時、霖之助の意識は突如、暗転した。


 ◆◆◆


 ――チリン、と風鈴が揺れる音が聞こえる。

 頭が急に冷える感覚に襲われ、霖之助は重苦しい目蓋を開けた。どうやら額に氷嚢が乗せられているらしい。
 外より吹く柔らかな風が心地よい。その癖、身体は未だに重苦しくて動きたくても動けない。
 どうしたものかと思案し、だが動かなければなにも始まらないと自答して、腹筋に力をいれて起き上ろうと―――

「ていっ」
「ごふ!?」

 した瞬間に、随分と力の入った手刀が霖之助の腹部を突き刺した。
 再び暗転。


 ◆◆◆


 ――チリン、と風鈴が揺れる音が聞こえる。妙な既視感に襲われた。いや、この場合は既聴感とでも言うべきか。

 ともかくとして、霖之助は重苦しい目蓋を開けた。妙に冷えた氷嚢。天井に釣り下げられた風鈴。やけに心地よい風。
 先ほどからずっと重たい身体。動きたくても動けない。動けないが動かなければならない。
 この展開はどこかで見たことあるような気がするな、と口を苦笑に歪めながらふたたび腹部に力を入れて、

「また手刀をお腹に突き刺されたいのかしら。物好きね――もしかして霖之助さんってそういう趣味もってんの?」
「……っ、いや、勘弁願いたいものだ。にしても、いつにも増して暴力的じゃないか。有無も言わさずとは」
「慣れないことしようとするからよ」

 その寸前で力を入れることを止めた。
 視界に入ってくる霊夢の無表情な顔。いや、どことなく不機嫌さが滲み出ているような表情。
 現状を推察しようと、霖之助は再び周囲を見た。場所は香霖堂の住居スペースにある縁側。額に乗せられた氷嚢が心地よい。
 それと共に身体を撫でるようなそよ風も含めて。丁度あの殺人的な日光から遮られた場所である為、気温も先ほどの場所と比べて圧倒的にマシである。
 身体は立っていない。横倒れになっている。そして後頭部にある柔らかい感触が妙に気持ち良く、重苦しい目蓋が、その安寧の所為で再び閉じようとしている。
 だがその前に聞くことがあった。霖之助は視界を占拠する霊夢の顔へ向かって質問を投げかけた。

「聞いていいかな」
「なにかしら」
「僕は、なぜ君の膝を枕にして寝ているのだろうか」
 
 至極真っ当な質問である。と霖之助は思考したが、当の霊夢はキョトンとした顔になったのも束の間、呆れたように頭を押さえた。

「覚えてないの? 本当に」
「ああ。自分が寝ていたことすら記憶にない」
「ホントに重傷だわ、コレは……」

 どういう状況なのか全く理解を得ないが、呆れられる理由がさっぱりわからない以上、霖之助もその言葉に対してムッと顔を歪めざるを得なかった。

「で、いったい何があったんだい。さっきまで僕は店の鑑定台の椅子に座っていた筈だが」
「倒れたのよ」

 ――その即答に、どうにも霖之助の思考回路の伝達速度が遅くなった。
 倒れた? いつ? どこで? ちぐはぐの記憶が呼び戻されたと思えば埋没し、頭の中にあるパズルは崩れ落ちては組み直されていく。

「霖之助さんが水を汲んでくるって言って鑑定台から立ち上がった瞬間によ」
「水を汲むとき……?」

 そういえば、そうしようとした記憶が朧気ながら浮上してくる。
 どうしようもなく暑い部屋の中で、気だるく動こうとした後の記憶はどうしても思い出せないが――その時にそんな事が起こったのだろうか。

「まったく! 突然その場で倒れるんだもの。縁側につれていこうにも重くて大変だったんだから!」
「それは、また……迷惑をかけたなぁ」
「ほんっと、どれだけ心配したと思ってんのよ。反省なさい反省」

 どうやら本気で怒っているらしい。
 なるほど、どうして現状がこうなったのかに検討がついた、と思い至った瞬間に霖之助の目蓋が更に重くなっていく。

「眠いの?」
「どうやら、ね。熱中症というのは厄介だ。病気に掛からない半妖でも、身体の水分を取られただけで簡単に倒れさせてくれる」
「軽口叩くのはいいけど、次は本当に気をつけてよね。今日私が来なかったら、ずっとあのまま動かなかったでしょ。倒れるどころか、閻魔に阿呆らしい説法とくっだらない判決下されるわよ」

 霖之助の脳内であの小さな閻魔のどうしようもなく呆れくさった表情で真面目に説法をとく姿と判決を下す様子を、容易に想像できて思わず吹き出しそうになった。

「なるほど。それは気をつけなくてはね」
「そうよ。気をつけなさい」
「霊夢」
「なに、霖之助さん」
「ありがとう」

 そして再び霖之助は目蓋を閉じた。
 存外にひんやりとした、そして柔らかい彼女の膝の心地良さが霖之助を夢へと埋没させていく。

「――うん、おやすみなさい。霖之助さん」

 先ほどの切羽詰まったような声色ではない、
 彼女の優しげな声を最後に、再び彼の意識は暗転した。


 ◆◆◆


 眠った霖之助の髪を撫でながら、霊夢はため息を零した。
 ――実に、実に自分らしくない。あの時、霖之助が熱にやられて倒れた時。自分でもわからないくらいに動揺した。
 だけどそれ以上に、頭の中は冷めていた。その現状に驚きながら、それ以上の早さで自分のすべきことが何なのか、すぐに判断できたのだ。
 己は何だ。博麗。博麗の巫女である。
 博麗の巫女は何物にも縛られない。自由の体現である。誰に、どんなことがあろうとも、決して心乱すことなく自然体であって然るべきなのだ。

「それなのに、どうしてかしらねぇ」

 疑問はぬぐえない。自分の在り方に対して、自他共に認めるほどには忠実である彼女は首を傾げながら、自問自答を繰り返した。
 “答え”は既に出てるような気もするのに、何処かそれを認めたくないような感覚。心にある現実を封殺してしまうような自問自答。
 だが、どちらにせよ。その自問自答の答えに行きつくにはまだ早すぎるような気がする。
 ゆっくりと時間をかけて、それを探すべきなのだ。

「ま、今のこの状況は……悪くないわね」

 二人が居る縁側に風が吹く。どうしようもなく心地良いその風は、彼女のよくわからないモヤモヤとした感情も和らいでくれるようだ。
 どうしようもなく暑い真夏の日和も、忘れてしまうくらいに。
 静かな森の入り口。廃屋のような道具屋で、霊夢はこの空間に満足しながら再び彼の頭を撫でる。
 よくわからない感覚に、霊夢は少女らしく微笑みながら、この静観とした時間を楽しげに過ごしたのだった。


 ◆◆◆


 それから暫くして。
 あの時ほどの暑さでは無いにせよ、夏真っ盛りな日和。
 古道具屋香霖堂に再び霊夢が訪れた。どうしようもない暑さの中、何の遠慮もなく彼女は冷たい水をせがみ、涼みに来たのだ。
 涼みにくるならばこの香霖堂よりも冥界あたりまで行けば良いのではないかと霖之助は苦言を漏らしたこともあったが、「めんどくさい」の一言で片づけられ、今に至る。
 あの時、熱中症で倒れた時の経験があってか、香霖堂の中は十分に換気され、以前よりも格段に涼しげな空気が循環している。
 霊夢はその様子に「ようやく腰を上げたわね、めんどくさがりめ」と小馬鹿にしたが、反論するような資格も無いため、いつも饒舌である霖之助もそれに関しては黙秘した。

 そんないつもどおりの空気を愉しみながら、ふと霖之助はあの時に思った疑問を霊夢に対して聞くことにした。

「ところで霊夢、どうしてあの時、あんな暑い日に此処に?」
「んー? いや、別にいつもどーり暇だから来ただけよ?」

 本当にそんな理由なのだろうか。
 普通はあんな暑い日は部屋で涼みながらおとなしく日が沈むのを待つものだろう、と思わなくもなかったが、博麗霊夢とは元来自由人、何物にも縛られない性質故にそういった固定観念で見ることは出来ないのだろうと無理やり納得させた。

「君は本当に唐突だ。物好きと言ってもいいね」
「それが私だもの。それに霖之助さんに言われたくないわ、その台詞」

 実に的を得た返答だった。思い至る部分がある為に霖之助は再び反論の余地を奪われた。

「ほんっと――なんでこんな物好きでめんどくさがりな人んとこに甲斐甲斐しく出向くのやら」
「? すまない、小声だったから聞き取れなかったが」
「なーんでもないわよー。ほんとに。気にしないでー」
「……その態度、妙に鼻につくなぁ」


 そんな、真夏でもある、いつもの光景。