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 所変わって、アメリカ南西部――アリゾナ。
 其処にとある人間――齢は四十と言ったところの男が自慢の帽子を整えながら、専用貨物列車に運び込まれる“巨大な腕”を見据えている。
 男の名は『覇道鋼造』。世界随一とまで呼ばれるまで成長した超巨大結社『覇道財閥』の創始者にして現総帥その人である。
 覇道は、この“巨腕”を運ぶために現地で己が雇った人間達に対して様々な指示を飛ばしながら、悠々と珈琲を嗜んでいた。

(ふむ、良い豆を使っている。流石にブルーマウンテン、コナとまでは行かないがソレに匹敵する程香り高い。原産のモノじゃなく何処かから取り寄せたらしいが、後で担当の者に聞くのも悪くはないな)

 そう心の内で満足げにごちながら、彼は再び現在の作業状況を確認するため、ゆっくりと足を動かそうとしたその時だった。

「ミスター・覇道。ただ今、長距離無線装置から応答がありました」

 雇用者の一人が走って来て、息を整えながらそう言った。

「何かあったのかね? そろそろ作業も最終段階に入った所だから小さな用――講演の要請やら企業同士の会議などの要請には応じられないのだが」

「いや……それがどうにも緊急の連絡だそうで。ミスカトニック大学所属、ヘンリー・アーミティッジ教授なる人物からの」

「――アーミティッジから?」

 珈琲を飲む手を止め、覇道はその雇用者の男性に聞いた。

「はい、何やら物凄い剣呑とした口調でして――“鍵が暴走した”だの、どうのこうの言ってましたけど――一体なにが起こったんでしょうね、ってミスター、どちらに!?」

 彼が言い終わる瞬間、覇道は手に持った珈琲を投げ捨て、すぐさまに簡易テントへ走り戻っていった。それも、先程の落ち着いた表情から一変し、“実に切羽詰った形相を携えて”、だ。
 雇用者の男性はいったい何が起きているのか解らぬまま、呆然とその場で立ち尽くしていた。


 ◆◆◆


「アーミティッジ、ヘンリー・アーミティッジ! 聴こえるか、覇道だ!」

 テントに戻った覇道はすぐさまに長距離無線装置の受話器を取り、鬼気迫る声色で叫んだ。
 ノイズが所々酷く入ってくるが、その中で微かに声が聴こえてきた。馴染み深い声――アーミティッジの声だ。

『おお、ミスター・覇道! ようやく繋がったか……いや、それよりも大変だ、大変な事態が起こった』

「嗚呼、概要は聴いた。――“鍵が暴走した”とは一体どういうことだ。結界の構成は万全だった筈だろう」

『いや――それ――が……』

 ノイズが酷い。所々途切れて聴こえるため、全く概要が掴めないでいた。
 ――だが、そんななかで一つの単語だけが鮮明に聴こえたのだ。


『“デモンベイン”――突然、自律的に――起動、し――のだ。その瞬か――、突然“守護神機関”が暴走を――』


 危惧すら出来なかった最悪の事態だった。“銀の鍵”を封じるには、あれですら足りなかったというのか。
 このままではあの場の魔力が暴走し、在るがままに乱舞して、アーカムシティはおろか、地球レベルで大打撃を受ける事は想像するに難くない。
 だが……そんなことを理性の中で理論付けても、覇道鋼造の心の内は何処か安心感が漂っていた。この星の危機と呼んで然るべき最悪の事態の中で、鋼造の口はなんと緩んでいたのだ。
 今の今まで起動すらしなかった、“生まれてすらいないあの胎児”が、腹の中で目覚め、動いている。つまりは――

(オマエがこんなにも早く目覚めようとするのは……何らかの理由があると見て良いんだな? ええ、“デモンベイン”?)

 覇道は意を決して、受話器の先に居るアーミティッジへ指示を飛ばした。

「アーミティッジ、“守護神機関”が発動したときにはこの地球上の“何処か”で異変が起こっている筈だ。“アレはそういうモノだ”。地下に建設された“虚数展開カタパルト”と似通ったモノなんだ」

『ミスター・覇道……? 何を言って』

「まぁ聴け。“守護神機関”も“虚数展開カタパルト”も、“この場とその場”を結ぶ“扉”だ。それは余りに強烈な危険を伴う術式だが、それ故に私はアーカムシティの地下で何重もの結界を敷いて封印した。
 この結界ばかりは凄まじいものだと自負している。君らの母校にある秘密図書館最深部の封印と同等……いや、“それ以上”だと言っても過言ではない。“そうでなくてはいけないのだ”。
 ――では、何故そのような結界というリスクを背負ってまで、デモンベインは自律的に始動した? 我々の意図する実験による暴走ではなく、どうして“自律的”に始動したんだ?」

 覇道鋼造の言葉に、アーミティッジは驚愕した。

『……! そ、そんな、真逆……いや、本当にそうだとすれば、デモンベインは――!』


「その“真逆”かもしれん。恐らくその暴走の所為で現在“其処”と“何処”かを繋ぐ“門”が出来ている筈だ。その何処かに、アレが――デモンベインが自律的に行動した理由がある」


 覇道は断言した。在りえぬ、根拠すらない自信を以って。
 常人ならばそんなものは冗談だの嘘っぱちだのいって信じないだろう。だが、この男が言うとなれば別だ。彼が渡り歩いた過去の軌跡を鑑みれば、誰であろうとそう思う筈だ。
 アーミティッジも、彼の言葉を信じた。彼の言葉は荒唐無稽なれど、それらは全て、一切合切が真実なのだと。

『――では、こちらから霊子探査術式を最大に行使して、全世界に発現している字祷子粒子の波長を調べておこう。なに、すぐに結果が出るだろう。貴方は其処で大人しく珈琲でも飲んでれば良い』

 その言葉を聴いて、覇道の口が緩む。

「ハハ、生憎珈琲は先程飲んだばかりでね。――期待して待っているぞ、アーミティッジ氏」

 覇道は遥か地平の彼方――マサチューセッツ州、アーカムシティのある方角を見据える。
 その視線は、懐かしい旧友と出会った時のような、郷愁に塗れた感情を秘めていた。


 ◆◆◆


(ここは……一体――)

 アズラッドが瞬(まばた)きしたその時、世界は一変していた。
 まるで泥濘の闇の中に閉じ込められたかのような窮屈感が、彼の身に圧し掛かる。今まで感じたことすらない、異次元の空気だった。
 何も無い、黒い泥の世界でアズラッドは何もかもが虚ろで、何もかもが満たされている闇黒というものを知る。
 ――瞬間、世界が反転した。人間の観測できる次元を逸した角度へ、アズラッドは滑り落ちる。それは、まるで母親の胎内から堕胎する赤子のような感覚だった。
 堕ちる中で、彼の頭の中にとてつもない量を有した情報が流れ込んできた。

 それは自らの尾を噛む蛇/星の外を巡る大蛇/廻る世界/戻る世界/閉じ込められた因果/閉ざされた可能性/無限という名の有限の中で埋もれ行く数多の世界という骸達。
 その中で、光と闇がぶつかり合う。宇宙の中心、在りえざる軌道を描いて鬩ぎあう二つの輝きは、まさに人知を逸した血戦を行っていた。

(なんだ、アレは――)

 それは恒星に幽閉された神獣だった。それはあらゆる風を繰る神獣だった。
 “光”の両手のうちで飼い慣らされた二体の神性が解き放たれる。温度という概念が失われた真空の中で、世界を滅ぼす熱源と冷気が“闇”に向かって乱舞した。
 “闇”は虚空から輝く弓を顕現させ、悪意に塗れた狼を従え、それを矢として解き放った。ありとあらゆる万物を侵し、冒し、犯し尽くす悪神の顎が蹂躙する。
 それらがぶつかり合った瞬間、闇黒の宇宙の中にまた一つ星の如き輝きが煌いた。その煌きはだんだんと世界を塗りつぶし、冒しつくし、創り上げ、壊し尽くしながら爆砕した。
 世界が悲鳴を上げながら、その中心で二つの軌跡が再び在りえざる軌道を描いて乱舞する。光速という言葉すら生温い神域の速度を以って縦横無尽にぶつかり合う様はまるで独楽のようだ。
 そして二つの軌跡は停止し、その瞬間、それらの掌から絶大なる魔力が顕現した。“光”はその掌に、無限の熱量を。“闇”はその掌に、極々々低温の刃を。




『ハァァァァァァァァァァァァァ―――――――――――!!!!!』



『オォォォォォォォォォォォォ―――――――――――!!!!!』





 “光”と“闇”の叫ぶ声と共に、まるで輪舞(ロンド)のように華麗な∞(ウロボロス)の軌跡を描きながら、互いの必滅奥義をぶつけあった。



 そこで、アズラッドの思考(チャンネル)が切り替わる。

 ソレは、知らない男の映像だった。いや、中には女もいたし、そもそも人間ですらない存在もいた。
 だが理解できる事柄があった。何故なら、アズラッドが見る限りその者たちは皆、傍らにあの少女――“アル・アジフ”を携えていたのだから。

(俺より先代(まえ)の――“死霊秘法の主(マスターオブ・ネクロノミコン)”……!?)

 理解した刹那、再びアズラッドの脳に人知では測る事の出来ない情報量が大瀑布となって流れ込む。



 其れは未来における誰かの出来事だった。



「汝、名はなんと言う?」

「何だこんな時に!」

「こんな時だからこそだ。名は大切なモノだ」

「あーもう、解った! 言えばいいんだろう言えば!」


「俺の名前は―――!」



 其れは過去における己の出来事だった。



「“アル・アジフ”」

 ――汝は何者か。

「――我が名はアズラッド」


「魔導書【アル・アジフ】……我は汝と契約する」



 其れは失った可能性における、何者ですらない者の出来事だった。



「契約ってのは、こうやンのか? ―――なんかテレるな、おい」


「あ? 俺か? 俺の名前は――」



 来るべき未来、過ぎ去った過去、在り得ざる可能性。
 ありとあらゆる時間軸が入り乱れ、混在し、其処と此処と何処に偏在する。
 その中で――彼らは闘い続けていた。一心不乱に、惨めに、醜く、それでも懸命に闘い続けていた。
 傷だらけになりながらも、死すらも死に絶える永劫の中で、幾度と無く失敗しながらも、決して折れぬまま、闘い続けていた。
 己の半身たる鬼械神アイオーンが闘っていた。姿形を微妙に変質させた、己以外の誰かが駆るアイオーンが闘っていた。はたまた、術者を欠いたまま闘うアイオーンもいた。
 だが、それらの全ては皆この世界と同じ様に、最終的には動くことすら叶わぬ骸と化してゆく。勝つことの無いまま、その全てが敗北という絶望の中で朽ち果てる、運命の輪の中にいた。



 なれど……アイオーンという最高位の鬼械神が斃れ逝く中で、一つの脆弱な光……星が顕現した。



 其れは憎悪の空より落ちる涙だった/其れは正しき怒りを胸に抱く魂だった/其れは、一切の邪悪を赦さぬ断罪の刃だった。
 其れは産まれてすらいない胎児の剣だった/其れは骨格が剥き出しのままの、未完成の剣だった/其れは二つの心臓を持つ剣だった/其れは二闘流の剣だった。
 其れは惑星を媒体として顕れた剣だった/其れは三面六臂の剣だった/其れは宇宙よりも尚巨大な剣だった。
 其れは小さな剣だった/其れは細胞の剣だった/其れは幽体の剣だった/其れは電離体の剣だった。
 ありとあらゆる形をしたそれらは、その全てが同じ意思のもとに集う。邪悪に抗う、脆弱ながらも高潔な魂の叫び。それらが紡ぐ物語は……“神話(サーガ)”だった。


 そう、それこそ。その神話を紡ぐ刃の名前こそ―――【魔を断t/検閲削除/「おっと、君がコイツを知るのはまだまだ早すぎる。不躾だが手を加えさせてもらうよ」/強制遮断。


 雑音(ノイズ)が奔った刹那、アズラッドの意識は理解できぬまま、夢の中から現実へ引き戻されていった。


 ◆◆◆


 覚醒したアズラッドの目に飛び込んできたのは、心配そうに顔を歪めた魔導書アル・アジフの姿だった。

「アズラッド……アズラッド! 意識は保てるか!?」

「ああ――大事は、無い」

 そう、返答するのに精一杯だったが、先程より身体は楽になっている。痛みも引き、無事に会話出来る程度には回復したらしい。
 恐らくはアル・アジフが治癒魔術を掛けたお陰で、どうにか今の状態にまで戻れたということか。アズラッドは重い身体を奮い立たせ、深呼吸をして整えた。
 そうして改めて魔導書を見る。アル・アジフの顔はやはり不安に翳っていた。アズラッドは現状がどうなったのかが解らない。
 今の今まで夢――その内容も余りに漠然とした夢だったため余り覚えていないが――を見ていたため、理解が及ばなかったのだ。

「アル・アジフ……奴は、イタクァはどうした?」

「奴なら――アレを見ろ」

 鬼械神の眼を通して、アズラッドは言われるがまま其れを視た。確かにイタクァは前方に佇み、未だに敵意を込めた視線を持って此方を睨み続けている。
 だが……イタクァはその場から決して襲い掛かろうとはしなかった。――否、“襲い掛かれなかった”。
 アイオーンとイタクァを間に、肉眼で確認できるほどの余りに膨大な魔力によって構成された“壁”が――時間軸、因果律の狭間と呼べるものが両者を隔てているのだ。

「一体、何が起こって――」

「妾にも解らぬ。余りに唐突な状況変化だ……此処まで来ると一体何が起こるか予測もできん」

 アル・アジフは苦々しく歯噛みしながら、イタクァの攻防という難を仮初ながら逃れたという事実に安堵の息を吐いた。
 だが安心するには未だ早いことも熟知する。この現実と“向こう側”の境界が余りに不安定となった空間の中では、何時その呪縛が解き放たれるかすら、わからない。
 故に最善を尽くすしかない。この満身創痍の鬼械神では、あの程度の紛い物ですら驚異となりえる。唯一の好機は、こうしてイタクァからの攻撃の心配すら幾分か解けた刹那の時を手に入れたこと。
 幸いにも、この境界が不安定な空間には、とてつもなく膨大な魔力と霊子が渦を巻いている。
 アズラッドの魔力を以ってアルハザードのランプを使わずとも、これ程の魔力が充満するならば鬼械神を呪術的に修復することだって可能だろう。
 アル・アジフは早速、己が知識の中で臥す記録を索引し、術式を形成した。

「王冠、叡智、理解、慈悲、苛烈、美、勝利、栄光、基盤、王国――巡れ巡れ、生命の樹を巡れ」

 幾重に展開される魔法陣。幾何学的な模様があしらわれた計算式が光を齎し、その中で無から有が産まれ、融合し、結合されてゆく。
 完膚無く破壊された左腕が徐々に錬金されてゆき、アイオーンの傷が塞がってゆく。だがその速度は余りに緩やかだった。
 いくらこの空間に魔力が充満しているとはいえ、これほどまでの損傷を癒すには余りに時間を掛けざるを得ない。
 だが、この損傷のまま再び闘争を始めるにしても、此方の敗北は眼に見えている。ならば、この壁が顕現している間だけでも回復に費やしてその現実から逸らさねばならない。

「全く、煩わしい……このままでは、いつこの均衡が破られても、此方が――!?」

 アル・アジフが苦言を漏らした瞬間、在り得ざる現実が立ち塞がった。
 イタクァが突如、絶叫を轟かせながら、周囲の魔力を吸収――否、“暴食”を行ったのだ。
 それに伴い、先程アイオーンによって傷付けられ、穿たれた身体が呪術的な再構成を、常識では在りえぬスピードで推し進めていく。
 暴食された魔力はイタクァの身体の一部となって、遂に新生する――いや、それ以上の術式が煉られてゆく……先程のイタクァの内部魔力構成は余りに出鱈目で、贔屓目で見ても“本物のイタクァ”とは似ても似つかなかったが……この場で莫大な魔力を暴食するどころか、その魔力を自ら再構成し、己が身体を完全にしてゆく様は……工程の始まりが違えど、それはまさしく“召喚”そのものであった。
 今、紛い物のイタクァは自らの身体を贄として、真の旧支配者たる“風に乗りて来たるもの(イタクァ)”を降霊させんと咆哮をあげる。

「魔力の“暴食”、“再構成”、そして“召喚”――莫迦な! いくら奴が紛い物の旧支配者とて、彼奴一体だけではそのようなおぞましい術式を構成するのは不可能だ……いったい何が起こっている!?」


『それはだね、“魔物の咆哮(アル・アジフ)”――種明かしをしてしまえば、この儀式が行われる原因には私が一枚噛んでいるからさ。最初から解っていたことじゃないかね?』


 瞬間、驚愕に打ち震えるアル・アジフの漏らした疑問に、突如として応答する声が響き渡った。
 老いた人間の声――余りに傲慢かつ絶対の自信、なによりも邪悪に染め上げられた感情と共に吐かれるその声を、アル・アジフとアズラッドは覚えている。
 否、忘れるワケが無い。彼奴は、アズラッドが追い求めた――復讐の矛先なのだから。
 思考するよりも先に理性と本能の入れ混じった感情に突き動かされ、生涯の怨敵たる奴の名をアズラッドは怒りと共に叫んだ。


「貴様か――“ラアル・ロブディ”ッッ!!!」


 魔術的な気配察知によって導かれた視線の先――イタクァの丁度頭上にて浮遊する人影を睨み付けた。布を全身に纏った小柄な人間……“ラアル・ロブディ”は、布に隠された顔を歪めて哂う。
 余りに邪悪なその嘲笑を前に――アズラッドは激痛さえ超えた怒りに身を任せ、アイオーンの右腕に未だ握られたバルザイの偃月刀を奴に向かって投げ打った。
 凄まじい回転によって大気を切り裂きながら飛翔する偃月刀を前に、ロブディはやはりその嘲笑を崩さない――偃月刀が彼の眼前にまで迫った刹那、超常的な力がロブディの下から偃月刀にぶち当たる。
 偃月刀はそのまま回転力を失うどころか砕け散り、灰塵に帰した――イタクァの放った触覚器官が、偃月刀を打ち砕いたのだ。

「イタクァがロブディを守った――? 真逆、貴様……旧支配者を使役しているというのか!? 正気の沙汰ではない!!」

『君が“正気の沙汰”を説くのかね、アル・アジフ。まぁ、だが君のその疑問も最もたるものだ。そもそも私程度の存在を守るなど――ふむ、やはり“失敗”のようだ。これでは“真なる神の召喚”たりえない』

 そうロブディは心底残念そうに、懐から“魔導書”を取り出す。
 それを視た瞬間、アル・アジフの疑問がついぞ氷解した。

「“流血祈祷書”? ――否、それは!!」

 腐った血のように黒ずんだ表紙に這う何十匹もの蛆虫が、その本からはみ出る魔力を喰らっていた。
 余りにおぞましい装飾を成されたその本の表題は――

『そう――これぞかの有名な“Mysteries of the Worm”――“妖蛆の秘密”の英訳写本版さ。
 生憎、原本たるラテン語版(De Vermis Mysteriis)までは探しきれなかったが、今回の実験――こと魔力の暴食、召喚を行うにはこれほど適した魔導書は他にないだろう。
 ……まぁ、結果は失敗に終わってしまったがね。“術者の意図に従う旧支配者”など、存在しないのだからな』

 嘲りながら、ロブディは“妖蛆の秘密”の革表紙を愛しく撫でた。――瞬間、ロブディの手から術式が形成され、炎が突如として顕現し“妖蛆の秘密”を燃やし尽くす。
 表紙に這っていた蛆虫が声ならぬ声をあげながら燃え死に逝く様を見て、ロブディはやはり嘲笑した。

『流石に、このように突如として巻き起こった非常事態(イレギュラー)には驚いたが、この魔力量、利用しない手はなかろう? 不完全な召喚で産み落とされた紛い物を、どれだけ本物に近づけれるか試してみたものの――ふむ、何事も手順が大切だな。失敗作はどこまでいっても失敗作だ』

「――! 術式の媒体とする“妖蛆の秘密”を燃やしただと……汝、真逆!?」

 アル・アジフがそれに勘付いた時既に遅し。媒体を失ったイタクァは、完全新生を遂げたその身体と意思に齟齬が発生し――狂った。
 先程の寒波を越える寒波が、暴走を遂げたイタクァの身体を包み、それどころかアメリカ大陸最北端に位置するこの場を中心に、世界中を凍結させかねない窮極の冷風を吹き荒ぶ。



“■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――――――――――――――――!!!!!!!!!!!!!”


 
 理性を失ったイタクァは、先程発生した謎の現象により顕現した見えざる壁を、力の限り攻撃する。一つの山さえも砕きかねない必滅性を孕んだ、ただの一撃が炸裂した。
 ありとあらゆる攻撃は次元の壁により無効化される筈が、ここに来てその秩序も無へ還る。イタクァのその一撃は、次元という既知を軽々と超越した威力が孕まれているのだ。
 三次元はおろか、それ以上の次元間で破壊の事象を起こしかねない威力を前に、次元の壁に亀裂が奔る。
 その様子をやはり嘲笑しながら見据えるロブディは饒舌に語った。


『故に! 私はこの子を棄てよう! それでこの子が狂い、悶え、のたうち、暴れるならば、それを嬉々として見守ろう! 
 この暴走で、少しでもかの“風に乗りて来たるもの”へ近づけれるのならばなぁ!! はは、アハハハ、クハハハハハハハハハ』


「くッ! 気をつけろ、アズラッド! 奴め、イタクァを意図的に暴走させよったぞ!!」

 アル・アジフの警戒も虚しく、イタクァはその膨大な力を次元の壁にぶつけ続ける。
 衝突する度に亀裂が奔ってゆき、罅がだんだんと大きくなっていく。
 次元を打ち砕く威力を持つ大打撃の凄まじさ足るや、もしもこの次元の壁を突き破り、満身創痍のアイオーンにその力をぶつけられたら……考えるのも嫌になる。
 今のアズラッドの状態を鑑みても、これ以上の魔術行使は避けねばなるまい。彼女の記述の内にはこの状況を一時的だが回避でき得る呪法兵装もあるのだが、それを使うことさえも躊躇われる程の危険な状態なのだ。
 なれどアル・アジフは現状の打破を思考する。彼女の内に刻まれたありとあらゆる記述の中から、最も最適な呪法を検索し、尚且つアイオーンの修復術式、アズラッドの治癒術式という余りに無茶な平行展開を行う。
 『シャンタク』の超加速による離脱=却下。アズラッドの消費魔力量が規定値を逸脱。
 『バルザイの偃月刀』による近接戦闘の続行=却下。同上。
 『ロイガー・ツァール』の解放=却下。同上。
 『クトゥグア』の解放=却下。喩え召喚出来たとしても、急激な熱変動は術者自身も非常に危うく、何よりもアズラッドの状態を鑑みれば同士討ちという結果に終わることだろう。
 『イタクァ』の解放=却下。そもそも同神性であった場合、どちらの神格が上かで決する。先の紛い物ならともかく、真なる旧支配者に近づいたアレ相手に記述程度では押し負ける。
 『ニトクリスの鏡』の使用=……却下。次元と時間軸、因果が不安定なこの場において、そのような確率変動術式を行使してしまえばどうなることか……想像すらしたくない。

「――糞」

 ……手詰まりであった。ありとあらゆる外道の法、その中でも極上の部類に入る記述では、眼前のイタクァを止める術が何処にも無い。
 次元の壁の亀裂が、遂に限界を迎えた。次の一撃でそれを微塵に砕いて、アイオーンごとアズラッドとアル・アジフを襲うことだろう。最早、抗う術の総てが無残に無意味と化す。
 アル・アジフは眼を閉じた。もはや万策尽きた。我等の行く路は、今日、此処で途絶えるのだ。

「アズラッド……逃げろ」

 それは抵抗ですらない悪足掻きだったのかもしれない。
 アル・アジフは何時に無い、焦燥しきった表情で告げる。敗北が、死が、眼前に迫ってきていた。
 ならば、せめて……この男だけは。アル・アジフの内に、過去の無念が浮かび上がる。
 己と契約した主達の末路――命を燃やし尽くしたもの、正気の向こう側へ行き、戻れなくなったもの、死を超えた死を迎え、魂さえも消滅したもの。
 総て、彼女と関わったが故の末路だった。ならばその無念という怨嗟は己だけが持ってゆくに相応しい。この男に背負わせることだけは――してはならない。
 
「――」

 だが、アズラッドはその言葉に応える様子はなかった。……否、それは無情の中で掲示される“拒否”。
 アズラッドは未だ諦めてなどいなかった。己が定命を物ともせず、己よりも強大な敵を前にも怯まず。ただただ、己の復讐心に忠実だった。
 アル・アジフはその表情を見て、渇いた笑みを浮かべた。

「この、大うつけが」

 振り上げられたイタクァの腕。満身の力を篭めて放たれる一撃が、遂に次元の壁を突き破る。まるで硝子のように砕かれた壁の先、未だ左腕の錬成が不完全なアイオーンに、その力が向けられる。
 再び翳される殺意の鉄槌。死すら死に絶える永劫を征く鬼械神を殺戮する極低温の鉄槌が、渾身の限りを纏い―――振り下ろされた。
 必滅の力が、アイオーンの装甲に触れる。


『クハ、クハハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!』


 その刹那、アズラッドの耳に届いたのは。忌々しい老魔術師の嘲笑だった。

 暗転。


 ◆◆◆


 アズラッドは再び夢のまどろみに浸かっていた。闇黒の泥濘に身を委ね、ただただ漂っていた。
 死の淵にいた先程と比べて、身体が妙に軽い。アズラッドは感覚的に、此処が“死後”の世界かと思考した。
 感情の波が全く出てこない。総て、何もかもが億劫で。行動することも出来なくなったこの体たらく。――それは、諦観なのだろうか。
 あれ程まで燃えていた復讐という感情も、今は火花さえ上げてこない。
 アズラッドはそれを甘美な毒だと理解した。復讐に燃えたあの頃と違い、此処は酷く落ち着いている。何もかもが虚ろだが、何もかもが満たされている。
 それを享受すれば、己は永劫の内にて楽になれる。もう、命の限りを尽くして闘わないでいいのだ。己の身体を傷付けることなく。誰かの身体を傷付けることなく。
 ただ――この永劫という毒の泥濘で。己はこの絶望に縋って死に逝くのだ。

「ざまァ無ェな、オイ」

 突然、聞いたこともない男の声が聴こえた。アズラッドは、ただただ無感情に声のした方へ首を傾ける。
 人影が見えた。闇黒の泥濘の中で、何故か映える影が、アズラッドを見据えていた。アズラッドはただただその人影の言葉に耳をむけた。

「ハ――、その程度で諦めンのか? ったく、無様で無様で見てらんねーなァ。殺されてェのかテメェ……って、もう死に掛けてるか」

 一体、何が己を責め立てているのか。アズラッドはそれさえも思考が出来ないでいた。
 このまま、この永劫の内を彷徨い続けてしまいかねない程の無気力が沸き起こる。それを視た影はやはり嘲笑……いや、それは怒りだったのかもしれない。

「オイオイオイオイ、マジか? マジなのか? テメェはこんな終わりで満足だってのか?」

 それで何が悪い。もう、俺は疲れ果てた。
 アズラッドの胸に去来する失意と諦観。……だが、その想起は、果たして真実なのだろうか。

『俺は――』

 徐々に、沸々と。アズラッドの胸に火が燃え立った。それは僅かな……蝋燭のような火だった。
 だがそれは想起だ。そう……彼と共に歩んできたたった一つの苛烈な感情――復讐心。
 それはそれは余りに劇的な毒だ。死さえ乗り越える事が出来る、余りに残酷な毒である。だが……アズラッドはやはり、それを想起したのだ。

『俺は、ラアル・ロブディを討つまでは――死ねない。死ねないさ』

 アズラッドは泥濘に埋もれた腕を力の限り、上へと伸ばした。
 その先には何も無い。星の一つない闇色の空を、掴むしかない。だが――彼のその手を、乱暴に握り返す影がいた。

「上出来だ」

 痛覚を催すくらい力が篭められた握り手が、泥濘の中に溺れるアズラッドを引っ張り上げてゆく。
 闇色の中で映える影は実に兇暴な笑みを形作った。それは……天も獄にも逝けなかった、煉獄の狭間を彷徨う戦鬼の風情を漂わせていた。
 泥濘の中から生還したアズラッドは、体力も気力も底に尽きながらも、その風情を纏った影を前に慄く事無く、この闇の中から、あの戦場へ帰り咲く為に如何すれば良いか思考する。

 その瞬間――影が一層その兇暴な笑みを歪めて哂った。



「なァ――ちょっくら“代わらせてくれよ”。こんな狭苦しい場所から助けてやった代金だ。嫌だなんて言わせるかよ――そうだろう、“先輩”?」



 刹那、闇の中。哂う影を中枢に、余りに兇暴な閃光が瞬いた。

 光転。


 ◆◆◆


 アイオーンの装甲にイタクァの触覚器官が触れた刹那だった。
 突如として鬼械神と旧支配者の間に暴虐を極めた閃光が“割って入り”、必滅の意を込められたイタクァの暴力が弾き返される。
 余りに強烈な閃光は爆発にも似て、イタクァは無意識の内にその閃光から距離をとった。

「な……なんだ?」

 アイオーンを駆るアル・アジフも突然の事態に愕然とするしかなかった。
 巻き起こる閃光――魔力の奔流のそれはこの場に渦巻くソレよりも少ないものの、内包されているその力そのものの暴虐さ、破滅的な構成、どれをとっても全てが剥き出しの野性の如き兇暴性を誇っている。
 熱気でもなく冷気でもなく。ただただ燃え滾るその闘志。純粋無垢故の直情さ。どれもこれも、感じたことの無い魔力の猛り。
 何よりも不可解なのは、その魔力はアイオーンから解き放たれているモノだと言う事。魔力とは精神だ。術者の持つ気質そのものと言って良い。
 アズラッドの持つ魔力は深遠の底にて沸々と煮え滾る溶岩の如き熱の篭もったモノである。だが――この魔力は違う。アズラッドの放つ魔力とは全く以って違うモノだ。

『……! まだ抗う術が残っていたとはな――だが、もはやそのような小技では抗いきれんだろう? 一気に、一思いに。何の慈悲も憂いも感傷も無く、始末してくれる』

 その微かな異変を、アル・アジフの持つ魔術のモノと断じたロブディは、“妖蛆の秘密”を焼却されてなお僅かに服従の意思を見せるイタクァに最期の命令を下した。
 イタクァはそれに応じ、再び全霊を込めた力を滾らせ、極低温の嵐を纏い、音に迫る勢いで満身創痍のアイオーンに突撃を謀る。
 再び迫る絶体絶命の危機。アル・アジフは今度こそ駄目かと、先ほど巻き起こった異常に対する思考を討ち棄て、眼を閉じた。


 ガキィィィィィィ―――………ィ、ン


 再度、アイオーンとイタクァの間に閃光が弾けた。
 鈍い音が、木霊した。鉄が砕けた音ではない。ただ、物体と物体が衝突しただけの音響である。
 違和感。旧支配者に近づいたイタクァが放った渾身の吶喊は、如何なる物質――それが例え神の模造品たる鬼械神(デウス・マキナ)であったとしてもだ――を灰塵に帰すことが必定の筈。
 ロブディは、やはりアル・アジフの記述にある何らかの術式が作用してると思ったが……ロブディの心の内の奥深くで、否と叫んでいる。

 光が段々と晴れた。イタクァとアイオーンがぶつかり合っている――だが満身創痍のアイオーンはイタクァの突撃をもう耐えることは出来まい。
 だが……完全にその閃光が消えた時。その思考が否であることが、明確に、鮮烈に、明らかとなった。

『な……何を。何をした、アズラッド!? ――アル・アジフ!?』

 アイオーンの“失われた筈の左腕”が、全霊を込めた突撃を行ったイタクァの首元を掴んで、その圧倒的な力を超越した力を以って押さえ込んでいるのだ。
 否。否否否。アレは“失われた筈の左腕”などではない。アズラッドが駆るアイオーンの腕は、あのような形容をしていない。あれ程までに苛烈な攻撃性を顕した形容ではない。
 ロブディがソレに驚愕しているその時。その異常点から再び異変が乱舞した。
 アイオーンの“新生”した左腕から、まるで“侵食”するようにアイオーンの傷付いた巨躯の“再錬成(マテリアライズ)”が急速に行われてゆく。


 メギメギメギメギメギィ―――………!!


 旧(ふる)き刃金と旧(あたらし)き刃金が交わり、産まれてゆく音。魔力と魔力が混ざり、変化する様子。
 其れは回復でもなく蘇生でもなく、ましてや進化でもなく。其れは――正しく、“変幻”。
 アズラッドが顕現させるアイオーンの形容よりも、激しく、苛烈に、研ぎ澄まされた狂獣の如き姿。余りに破滅的な攻撃性を秘めたその威容。
 アイオーンの真紅の眼が金色に輝いて、其れに宿る、余りに激しく燃える炎の如き殺意を以ってイタクァを射抜く。

「何が、一体何が起こっておる!? おい、アズラッド! 汝、一体“何”をした!?」

 操縦席で気絶している筈のアズラッドに向かって、アル・アジフは疑問を叫んだ。だが……アル・アジフが背後にある筈の操縦席を視た瞬間、在り得ない光景が広がっていた。
 アル・アジフの座る予備操縦席と直ぐ背後に位置する操縦席との間に、余りに堅牢な“呪術的な鉄柵”が敷かれていたのだ。これではアル・アジフからアズラッドの様子が全く解らない。
 一体、アズラッドに……アイオーンに、何が起こっているのか。
 全く検討も付かない事態に困窮を極めたアル・アジフの耳に、アズラッドの……否、“アズラッドではない男”の声。








『ヒャハハッ――“久しぶり”だなァ、おい! それとも“はじめまして”かい!? まぁ、どっちでも良いか――なァ、“アル・アジフ”!!!』








 初めて聞く、“懐かしい”声が、聴こえた。